拓本部会の活動をご紹介します ↓
七重塔の礎石碑
判読が困難です。
拓本の採拓をすると文が読めます。
採拓紙に写すことによって、碑文が読み取りやすくなります。
令和5年度の友の会4部会合同見学会は「国分地区を巡る」でした。
参加者39名(一般8名)の参加者を得て、小雨降る中での出発となりました。初めに瓦窯跡・北下遺跡の説明を受けた後、国分城跡の櫓台を訪れました。
この櫓台は造園会社の私有地であり、普段は立ち入ることは出来ないのですが、社長さんのご厚意によりこの日は見学しやすいように通路も歩き易くなっていました。
国分寺の仁王門前で記念写真を撮った頃には雨も止み、国分僧寺跡、伝国分五郎の供養塔、馬頭観音の説明がありました。
七重の塔の礎石碑の前で拓本部会が実際に碑文を採拓し採拓紙を披露しました。(上の写真はその様子です)
その後は庚申塔、国分尼寺跡を訪れ、最後に外環道建設時に、7000年前の丸木舟が発掘された雷下遺跡を訪れて解散しました。
なお、アンケートには多くの感想が寄せられましたが、資料も詳しく、初めてみる箇所が多かったので良かった等のご意見をいただきました。
参加者36名(会員32名、一般4名)
台風14号・15号が関東地方に接近し、天気が心配されましたが、当日は晴天に恵まれました。参加者は予定通りに新宿線、
丸ノ内線を乗り継いで茗荷谷駅に到着。少し歩いて竹早公園で会長の挨拶と注意事項の伝達がありました。
石川啄木終焉の地・資料館から新福寺へ。この寺は新撰組発会の地であり、夏目漱石が下宿した場所でもありました。
次の光円寺は、日本画家・不染鉄の生家。天明年間の「狂歌四天王」の一人鹿都部真顔の墓碑や東京大空襲で焼け残った大イチョウを見学しました。
伝通院の名は徳川家康の生母“於大の方”の法名。墓域には秀忠・家光の関係者や作家等が眠っており、
幕末には新撰組の会所にもなりました。 幸田露伴・小石川蝸牛庵跡は言われなければ素通りするところでした。
露伴が戦後市川に来住するまで住んでいたところです。 猫ビル・故立花隆氏の事務所は、妹尾河童氏の下書を
島倉二千六氏が背景を書いたとのこと。島倉二千六氏は黒澤明・山田洋次・市川崑等の監督の作品の背景画を描いてきた画家です。
最後は源覚寺。本尊のこんにゃくえんま像は鎌倉時代の作と言われ、文京区指定文化財。境内には第二次大戦後、数奇な運命たどった
「汎太平洋鐘」や慰霊碑がありました。
参加者のアンケートでは文京区には興味ある施設等があり、認識を新たにしたとのことで、好評でした。
令和3年度 拓本部会の活動をご紹介します ↓
生実地区には旧石器時代・縄文時代( 地層の壁・扇田小学校児童のアイディアによる )弥生時代の遺跡も多く、 石器や炉穴も多数発見されており、人々の生活していた痕跡が見られる。
古墳時代の前方後円墳や円墳も千葉市最大のものが確認され、鉄剣も出土している ( 千葉市埋蔵文化財調査センターでは加曽利貝塚をはじめとした縄文時代の典型的な大型貝塚や郷土の歴史と文化を物語る遺跡の調査研究を行っている
)
奈良時代、平安時代には集落が形成されて、物流も盛んになり、陶器や金工品などが発掘されている。
律令制度の形成とともに五畿・七道の整備も進み、古東海道が生実池のそばを通っている。
室町時代・戦国時代では小弓(おゆみ)城址( 千葉氏居城を亥鼻に築くにあたり堅固な支城として築かれ、 また、連歌の会も催された )の存在とそこを舞台にして活躍した千葉氏の重臣・原氏の存在が知られている。
近世、生実には森川家北小弓城址に陣屋を置いて支配した生実藩があり、千葉市内では唯一と言っても良い城下町の跡が残っている。
千葉と言えば千葉氏や里見氏を思うが今回、認識を新たにした。
見学場所として大百(おおど) 池(いけ)、八(や) 剣(つるぎ) 神社(じんじゃ)、行人塚、関東天然瓦斯開発・南生実PL跡、 千葉市埋蔵文化財調査センター、大覚寺山古墳、森川山重俊院、生実神社、どれもゆっくりと見学したい所であったが、 資料も豊富で講師の懇切丁寧な説明に感動し、満足した半日であった。
当日は小雨がちらつく、天気ではあったが支障なく見学ができた。
甲冑は、時代劇や博物館でしか見ることができないものと思われてきたが、
近年、きっかけはゲー ムやコスプレの流行であったかも知れないが、城下町の観光案内や、より多くの市民参加を意図した
「武者行列」が地域の祭りに導入されることが多くなる中で、再び、目にする機会が増えてきた。
しかし実物の甲冑は、そのほとんどが博物館のガラスケースの中だし、レプリカも売られてはいるが、
良いものはやはりそれなりのお値段が付けられている。
そこで注目されてきたのが、手作り甲冑で、自分で作った甲冑を飾ったり着たりする人が全国に現れてきた。
素材も、金属、プラスチック、ボール紙と様々であるが、共通することは、日本の甲冑にその造形の美しさと
廃れさせてはいけない日本の伝統工芸の一端を見出していることである。
よって、作り方も本格的である。
千葉では、甲冑師林乙次氏(平成10年没)が考案されたボール紙と和服生地で作る甲冑を、館山在住の人たちが学び、
地域の歴史の学習と町おこしの一環として、25年ほど前から甲冑教室が始まり、今日まで続いているが、
そこで学んだ人たちが、大多喜、松戸、鋸南、千葉市内で教室を開催し、 その普及につとめている。
関心を持たれた方は是非ご一報を!
令和元年度 拓本(たくほん)部会の活動をご紹介します
※ 5月19日 野外採拓 東金御殿山「碑の森」にて実施
考古・拓本部会体験学習「学芸員による講義と縄文土器片採拓」実施。
領塚学芸員より、市川市内から出土した縄文土器に関する講義を受講。
その後、出土品の土器片で採拓及び作品を裏打し色紙に仕上げる。
※ 10月から表装作業。3月に完成予定でしたが、新型コロナウイルスの
影響で未完成。
拓本とは古代中国で石や木に刻まれた、 文字や絵などを紙に写し取るために考えられた技法です。
日本には、平安時代に伝わってきたようです。石などに彫られた文字などを、 簡単に原寸大に紙に写しとれ、
また保存にも便利なため、書家や文人たちの間に広がり普及しました。
拓本の持つ大きな特徴は、写真撮影でも大変手間のかかる原寸大の撮影も、 拓本なら誰でも簡単に原寸大に写し取ることが出来ます。
また縄文土器などの文様も簡単に写し取れ、 細部まで確認することが出来るため、考古学の世界でも拓本技術は重宝されています。
拓本部会では、市立市川歴史博物館を活動拠点にして、石碑や道標などに彫られた金石文を拓本にとり、 碑文の内容を解読する事と、彫られた文字の美しさを鑑賞するため、拓本を掛軸表装にする事も行っています。
拓本は、基本を学べば、誰でも簡単に出来ます。是非、皆さんも一度、拓本を採っている所や表装を行っている現場を見学に来てみませんか?
きっと面白い世界が広がると思います。
拓本のとり方は乾拓法と湿拓法の二つの方法があります。
乾拓法(かんたくほう)とは
乾いた紙のまま拓本を採る方法。たとえば10円硬貨などの上に紙をのせ、鉛筆でこすって形を写し取るのも乾拓法のひとつ。特に水を使えない場合や急いでいる時の不可欠な採り方。
湿拓法(しったくほう)とは【友の会は殆どこの技法です】
原物(石碑等)の表面に当てた紙を、上から水で湿らして貼り付け、墨のついたタンポでたたいて写し取る方法。
具体的には
(1)石碑の寸法を測り、汚れを取り除く。
(2)紙を適当な大きさに切り、碑面に当てて紙に水分を含ませ、刷毛で撫でつけるようにして紙を石碑に貼り付けていく。
(3)この後 概略ですが紙の乾き具合を確認しながらタンポに墨を付け 手早く紙面全体をたたいて、墨の濃淡等確認して完成。