歴史部会の活動をご紹介します。↓
桜の花の開花宣言が近い春分の日。午前8:00にJR市川駅を出発して、9:15に地下鉄赤塚駅に到着した。都内の地下鉄の駅から、中世の山城を訪ねる。地上に出ると鎌倉街道、道なりに辿れば、
江戸名所図会にある大堂と八幡社。南北朝時代以降に七堂伽藍を誇っていたが、永禄四年の上杉謙信の小田原侵攻の途中に焼き払われたと言う。古刹・松月院に立ち寄り、武蔵千葉氏の墓を見る。
説明板に、歴々と「市川城を逃れた」千葉氏宗家が、武蔵に拠点を構え、この寺を中興・開基したとある。境内で併せて高島秋帆顕彰碑を見る。幕末の偉人であり、長崎の町人が西洋砲術を極め、
幕府の要請を受け徳丸原で実演した、その志の高さに感服しつつ説明板を見る。乗蓮寺で、東京大仏を見る。休憩と観光目的で立ち寄ったが、大仏の大きさに感動する人も多かった。
江戸時代、富士・大山などへの霊山登拝者が水垢離場として利用していた不動の滝を見る。
いよいよ、目指す赤塚城跡である。小山の中にあり、周囲は堀を兼ねた深い谷に囲まれ、戦国の雰囲気をひしひしと感じる。説明板には、市川城を逃れた武蔵千葉氏の拠点であることを記している。
麓の板橋区立郷土資料館で、赤塚の歴史、武蔵千葉氏の歴史、高島秋帆に関する説明をつぶさに見る。12:30、一旦解散し昼食をとる。
13:00に再集合、帰路につく。赤塚城の物見台跡、伝・鎌倉街道、諏訪神社、民俗行事・田遊びの説明板、赤塚城の防塁(沖山の塁)などを巡る。天気予報通り、晴天から、にわかに曇り小雨も降る。
13:45に都営地下鉄・新高島平駅に着き、ここで最終解散。市川に帰ると、空には虹が出ていた。
アンケートによると、9割の参加者が〈満足〉と回答され、
「赤塚と市川の関連に気付いた」「武蔵千葉氏のことを新たに知った」「普段行けない所に行けて良かった」「説明が分かりやすかった」などの回答があった。ご批判の回答も有り、今後の見学会や勉強会の企画の参考にしたい。
応募者が92名になったため急遽同じ内容で2回実施することにしました。
1回目、1月21日(日)の見学会は雨天のため中止となりましたが、2回目の今回は天候に恵まれ実施することが出来ました。
歴史部会の江戸城の史跡巡りは、内堀2回、外堀1回と実施してきました。今回は4回目になります。
都営新宿線本八幡駅から市ヶ谷駅へ。市ヶ谷見附交番裏の広場で会長の開会挨拶があり、「市谷門跡」を出発、
市ヶ谷橋下の石垣の刻印、南北線市ヶ谷駅構内の「江戸歴史散歩コーナー」で古地図と遺構を見学後、2班に分かれました。
「茶ノ木稲荷神社」と太田道灌が西の守護神として祀った「市谷亀岡八幡宮」を見学して、紅白の梅の花を背に集合写真を撮りました。
「左内坂」を下り「定火消発祥の地」から「浄瑠璃坂」を上り、赤穂浪士が手本としたと言われる「浄瑠璃坂の仇討跡」から「愛敬稲荷神社」、 外堀通りに出て「新見附橋」を渡りました。
「国指定史跡・江戸城外堀跡」の土塁に植えられた松林の中を歩いて休憩後、 「牛込門跡」、「阿波守内の石」を見学し、 江戸時代から現代までの出来事が刻んである同心円状の石板を見学しました。
飯田橋駅の変わり様に驚いた参加者もいて、「飯田橋駅西口広場」の展望デッキから素晴らしい景色を見て感嘆の声を上げていました。 最後は、飯田濠の一部を復元した「飯田濠跡親水公園」で現地解散となりました。
アンケートの結果でも、外堀のことがわかってよかった、資料が良く、説明もわかりやすかったとの声が多く寄せられ、
参加者の9割から「満足」との回答を得て、今回の見学会は好評のうちに終了することが出来ました。
これまで、歴史部会では@「横浜港と馬車道・本町通りの博物館巡り」、A「旧山下外国人居留地巡り」、 B「旧山手外国人居留地巡り」の見学会を実施してきました。今回は横浜史跡巡りシリーズ第4回目、「野毛山周辺巡り」です。
勤労感謝の日。晴れ。事前のキャンセル者はひとりもなく、応募者全員が定刻までに集合して、 鉄道開通時の「初代横浜駅」である桜木町駅へ。
駅前広場で会長の開会挨拶があり、2班に分かれて出発。 「横浜の父」と言われる高島嘉右衛門のガス会社があった「日本ガス事業発祥の地記念碑」を見学、
「紅葉坂」を上り、丘の上の「神奈川奉行所跡」、「金星太陽面通過観測記念碑」を巡り、「掃部山公園」では「井伊直弼銅像」と 「横浜ランドマークタワー」を背景に記念の集合写真を撮りました。
その後、「横浜能楽堂」から「横浜道」に出て「野毛の切通し」を通り、 「伊勢山皇大神宮」へ。ここでは丁度新嘗祭の儀式が行われていました。 その後「成田山横浜別院延命院」に立ち寄り、
野毛坂の「亀甲積擁壁」を眺めて「野毛山公園」に入りました。公園の樹林区域では「ラジオ塔」、「中村汀女句碑」、 「佐久間象山顕彰碑」を見学し、入園料無料の「野毛山動物園」に到着。
引き続き「野毛のつり橋」を渡り、「旧野毛山配水池」と「ヘンリー・スペンサー・パーマー像(近代水道発祥の地)」を見学して公園の「展望台」に上りました。
眼下に広がる横浜港周辺の景色や「横浜みなとみらい21」の景観は最高でした。 最後は野毛坂を下り、野毛の繁華街で「美空ひばり像」を見学、「日本近代水道最古の水道管」のある「野毛三丁目公園」で現地解散となりました。
アンケートの結果の回収率は95%で、天候に恵まれて野毛山を堪能した、詳細な資料で説明も良かったとの感想が多く寄せられ、 95%の方から「満足」との回答を得て、今回の見学会は好評のうちに終了することが出来ました。
桜の花が満開に近い暖かい日、午前8時に市川駅を出発して、9時40分にJR横浜線小机駅に到着した。 小机駅のホームから西を望めば、こんもり茂る森の丘が目指す小机城である。友の会会長の開会挨拶に続き、
歴史部会の担当者が、小机城址見学のポイントを解説した。
歩くこと約15分、城への登城口に入る。登城の坂道を登りきれば土塁の上、下を見れば深い堀。
戦国時代の荒々しい城址に来た実感がひしひしと迫る。山城の縄張りのパーツである、虎口(こぐち:城の入り口)、
角馬出し(入口防御の仕組み)、食い違いの土橋(クランク状の道)、空堀(からぼり)などを見る。
本丸と言われている西の廓(くるわ)に入れば、そこには広々とした少年野球場。この城址は横浜市の公園でもある。
郭の端の方に近づけば、その先は深い堀が口をあけ、目もくらむ深さ。続いて、つなぎ郭、東の郭と廻る。
つなぎ郭は、電話の受話器の形をしている。なぜか? もともとは広い台地の削平地だったが、戦いが激しくなるに従い、
これを三分割しそれぞれの郭の間に深い堀を作ったものと言う。
これらの郭群を全体的にぐるりと囲む長大な空堀があり、急坂を恐る恐る降りて堀底に立つ。昼なお暗い溝の中、
見上げれば矢玉の嵐が上から降ってくるような背筋が寒くなる気分である。かくて、中世の古城址の構造をつぶさに見学した。
東の郭のベンチとテーブルで小休止をとり、見学の皆様のご意見・ご質問を受け、なお小机城の歴史について資料を元に解説があった。
次いで、地区センターで小机城址の関連の展示資料を見学。小机城主・笠原氏が創建した寺・雲松院を訪ね、
笠原氏代々の墓石を見学した。12時40分ごろ、いっぱいの歴史興味を満喫し、快い疲労とともに解散した。
アンケートによると、9割以上の参加者が<満足>と回答され、「山城の見学は楽しい」「堀の深さに驚いた」
「普段行けない所に行けて良かった」などの回答があった。ご批判の回答も含め、今後の城跡見学の企画の参考にしたいと思います。
新型コロナ感染防止のため、過去2回延期された当該バス見学会が4年ぶりに催行されました。
歴史部会開催バス見学会としては、 令和元年2月開催の「八王子城跡・滝山城跡を訪ねる」企画以来の後北条氏城跡巡りとなりました。
大型バスは8時前に市川公民館前を出発し、東京外環自動車道から関越自動車道に入り、車内では配付資料の解説が行われました。
事故渋滞が分かっていましたので途中休憩PAを変更し、当初予定時刻に嵐山・小川ICを降りることができ、 嵐山町の続日本100名城である杉山城跡に向かいました。
ボランティアガイド4名が待機しているところにバスが到着し、
最初の城跡巡りが2班に分かれて始まりました。杉山城は築城に関する謎が多い標高95mの典型的な山城ですが、 横堀や横矢、馬出、土橋、土塁、虎口などが良好な状態で残っていました。
杉山城跡を出発した後、バスは鎌倉街道を走り寄居町の鉢形城公園の駐車場に入りました。
そこの大型休憩施設で各自自前の昼食を摂りました。その後鉢形城ボランティアガイド3名と合流し、集合写真を撮影した後、
短時間見学班を含めた3班に分かれての見学となりました。鉢形城跡は埼玉県内城館跡では初めての国指定史跡で24万uの面積があり、
日本100名城の北条氏邦居城跡を歴史館を含めて、しっかり見学することができました。そして予定時間通り帰途につき、三芳PAで30分休憩時間を取り、
予定より早い17時過ぎに市川に着きました。
アンケートによると、9割近くの参加者の方が満足と回答され、「城跡見学は楽しい」「築城の見事さに感心した」
「普段行けない所に行けて良かった」など、城跡見学の人気を再認識させていただきました。
今季最強の寒波が予想される中の見学会となりました。JR市川駅から乗車し、四ツ谷駅で下車。四ツ谷駅構内の「江戸城外堀史跡展示広場」を見学して、
「現存する四谷門の桝形石垣」の史跡解説板の前で会長の挨拶があり、2班に分かれて四谷門を出発しました。
外堀公園の土手を歩きながら、真田濠跡の上智大学グランド、赤坂迎賓館を見ながら、岩倉具視暗殺未遂のあった喰違木戸跡、徳川の防衛の重要な拠点にあった井伊家跡、
坂の両側は紀尾井町という町名の由来となった紀伊家・尾張家・井伊家跡を通りながら紀尾井坂を下りました。清水公園で大久保利通暗殺への哀悼碑、玉川上水の石桝を見学して、
一旦休憩となりました。紀伊家跡にある遊歩道デッキを散策しながら赤坂門跡の石垣で黒田家家紋の裏銭紋の刻印を探した後、2班が合流し、
全員で集合写真を撮りました。この赤坂門跡の石垣と刻印に興味を持たれた方が多くおられました。
見学会の後半は、坂道を歩きながら幕末から明治にかけて活躍した勝海舟の邸跡三カ所を巡りました。 最初は私塾を開いた新婚時代の住居跡、
次は坂本龍馬が海舟を刺殺しようと訪れたが決意を変え弟子となった邸跡。近くにある赤坂氷川神社は元禄時代は浅野家の屋敷跡で、江戸の情景を残す場所です。
三カ所目は『氷川清話』などを遺すなど晩年を過ごして亡くなった赤坂氷川の邸跡を訪れました。ここに設置されている勝海舟・坂本龍馬師弟像の日本刀は、
両者とも抜かないよう鞘(さや)と柄(つか)を縛られており、感心させられました。
最後に氷川公園で会長の挨拶があり、見学会は散会となりました。時々薄日が差すことがあったものの、寒い一日でした。コロナ禍の中ではありましたが、
応募者が多数あり、残念ながら選に漏れた方もありましたが、アンケートでは、丁寧な説明(ガイド)が良かった、あるいは坂が多くて面白い一方で
疲れた、などの感想が寄せられましたが、概ね好評のうちに無事見学会を終えることができました。
文化の日、晴天に恵まれ絶好の見学会日和になりました。参加者の平均年齢は75.3歳。 JR市川駅から乗車し、横浜駅でみなとみらい線に乗り換え、終点の元町・中華街駅で下車。
地上に出て、居留地時代に初期ゲーテ座があった跡地で会長の挨拶があり、2班に分かれていざ出発。
ヘボン博士邸跡、フランス領事館跡、クリーニング業発祥の地碑、機械製氷発祥の地を巡り、 エスカレーターでアメリカ山公園へ。その後、坂を上り、居留地時代に活躍した多くの外国人が眠る
外国人墓地を眺めてから移転後のゲーテ座跡を経て港の見える丘公園まで歩き、一旦休憩となりました。 展望台からはブラフ(切り立った崖)越しに横浜港、横浜ベイブリッジ、ガンダムなどの眺望を楽しみました。
ここで、一旦2班が合流して全員で集合写真を撮りました。 見学会の後半は、フランス山・旧フランス領事官邸遺跡を見て洋館巡りになりました。 横浜市イギリス館、山手111番館、山手資料館、山手234番館と巡り、
元町公園に入ってエリスマン邸、ベーリック・ホール、そして関東大震災で倒壊した建物の痕跡がなまなましく残る 山手80番館遺跡では被害のすさまじさを目の当たりにしました。続いて急坂を下りて元町公園庭園へ。
谷崎潤一郎が脚本顧問として関わった大正活映撮影所跡碑を見てからジェラール水屋敷地下貯水槽へと向かいました。 ここでは居留地時代に良質な湧水を利用して船舶給水事業を立ち上げ
フランス瓦やレンガの製造工場を営んだジェラールに想いを馳せました。
最後に会長から見学会の終了・解散の挨拶があり、参加者は思い思いに元町商店街や中華街など、横浜の街並みを楽しみつつ帰路につきました。
コロナ禍で三密(密閉・密集・密接)を避けての団体行動でしたので、洋館内部に入ることは叶いませんでしたが、 参加者全員から得られたアンケートの回答では、天気も良くて楽しかった、
説明(ガイド)と資料が良かったなどの感想が多く寄せられ、
好評のうちに無事見学会を終了することができました。そして、今回の見学会で3名の方々が新たに会員に加わりました。
平成22年度から年1回実施してきた4部会(考古・拓本・歴史・民俗)合同見学会は、本年度「菅野地区を巡る」企画で開催されました。
参加者数が46名となったため、集合場所の京成菅野駅を出発する際に2班に分け、
前半は班によってコース順を若干変えてのスタートとなりました。
菅野停車場設置紀年碑、クロマツ並木道、市川砂州、平田遺跡・平田緑地、コククジラ出土地、平田聖徳太子堂、平田諏訪神社、新田春日神社、青面金剛碑、鏡石などを巡り、
京成市川真間駅で予定通り、12:30解散となりました。 クロマツの並木道では市川市名誉市民の永井荷風に因むエピソードを交えた説明があり、 平田聖徳太子堂では堂内に上がって縁起や聖徳太子像などの話を聞き、新田春日神社では神輿を見ることができました。
またクロマツでも保存樹木に指定されている松や、 戦時中航空機の燃料用松やに採取痕のある松、長年の風雨により砂地が削られ地表に根が露出した根上松などこの地ならではの多様なクロマツがあることを知るとともに確認することができました。
合同見学会ならではの多くの説明員による説明により、アンケートでは、回答者44名中42名(95%)の方から「満足」の回答が得られるとともに、
馴染みの場所だがいつもと違った視線で歩き新たな発見があった、 ゆっくり見学できた、神社・石碑・庚申塔など詳細な説明が聞けて良かった、
砂州・クロマツ・聖徳太子堂・平田遺跡に興味をひかれた、などの感想が寄せられました。郷里の自然や風土、先人たちの息吹が感じられる充実した見学会になったと思われます。
過去2回(令和元年11/4「横浜開港の史跡を訪ねる」、令和3年11/3「開港後の外国人山下居留地を
巡る」)の見学会と、本年11/3に予定されている「同外国人山手居留地を巡る」見学会の間に、
横浜開港後の居留地総集編として、9/19(月・祝)、勉強会「横浜開港と外国人居留地」を実施しました。
従ってこの勉強会は、11/3見学会の事前勉強会と位置づけて開催しました。
黒板に「横浜の新田開発や外国人居留地(山下居留地、山手居留地)と日本人町、主要史跡を図示した現代地図」
とともに「外国人居留地時代の地図」を貼り、主にこの黒板の地図に沿って講師が解説し、手許の冊子資料で
確認していく方法で進められました。
居留地に外国人商館や銀行、領事館、ホテルなどの施設が立ち並び、山手の洋館には外国人が住むようになり
教会や学校などが建てられました。 またイギリスやフランスの軍隊が山手に駐屯し、彼らの生活を通じて西洋の
文化が我が国に直輸入されました 。鉄道の創業やガス灯、アイスクリームやパンなど、横浜で生まれて日本の
近代化に寄与したさまざまな「横浜もののはじめ」についての解説もありました。
参加者からは、港町横浜の歴史がよくわかった、資料が素晴らしい、講師がよく調査・勉強している、
11月の見学会に参加してみたい、などの感想と希望が寄せられ、勉強会は好評のうちに終了しました。
歴史部会の令和3年(2021)度活動をご紹介します。↓
コロナ禍で昨年から今年に延期された見学会です。参加者を2班に分けて歴史部会幹事4名で前半後半を分担してガイドを行いました。
横浜開港と同時に設けられた外国人居留地のうち山下居留地一帯はかつて波止場を中心に整然と街路が区画され、生糸やお茶の輸出、
織物や武器・機械等の輸入貿易を行う外国人の商館が建ち並び、異国情緒溢れる区域でした。
今回は日本の近代化に大きな役割を果たした山下居留地を巡り、当時の面影を辿りました。
現在も当時と変わらず同じ地番が使われていることや、関東大震災で山下居留地の建物が瓦礫化しそれを埋め立てて山下公園が出来たことで
海岸線が変わったことなどに驚きがありました。
見学会は晴天に恵まれ、横浜の石川町駅前広場で会長の挨拶からスタートしました。幕府の艦船修理の官営工場「横浜製鉄所跡」、
中華街に入り「旧花園橋の親柱」、ブラントン計画の「横浜の下水道の始まり」、ジョゼフ彦による「日本における新聞誕生の地」、
三国志・関羽を祀る「横浜関帝廟」、イギリス人達のクラブ「ラグビー発祥の地」と巡り、ローズホテル横浜で休憩をとりました。
後半に入り蚕種・生糸輸出商社「デローロ商会」の「旧横浜居留地91番地塀」、大規模調査で発掘された商館の煉瓦積建物遺構の展示
「山下居留地遺跡」の前では2班が合流して集合写真を撮りました。
その後、紅茶やダイナマイト取引「モリソン商会」の煉瓦造り事務所「旧横浜居留地48番館」、「香港上海銀行」の「銀行業務発祥の地」、
幕府や明治新政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買で著しい利益を挙げた「ジャーディン・マセソン商会」の「英一番館跡」と巡り、
最後は海が見える山下公園まで歩き、公園内で現地解散となりました。
参加者からは「2班に分かれて少人数で行動できて横浜山下居留地をよく理解できた。説明や資料も良かった。」との感想が多く寄せられ、
全体的に好評のうちに見学会を終えることができました。
台風一過の晴天に恵まれ、久しぶりの見学会は、新型コロナウイルス感染防止対策を徹底し、 二班に分け少人数で実施しますと会長より挨拶がありました。
半蔵門は、江戸城内郭の中で最も高い位置にあり、ここからスタートしました。 桜田濠と土塁の景色を見ながら三宅坂を下り、最高裁判所東南角にある渡辺崋山生誕の地を訪れました。
田原藩主三宅備前守の上屋敷跡です。
次に憲政記念館が建っている井伊・前加藤家屋敷跡を訪れました。この地は全国統一された標高決定の基準となっている 日本水準原点標庫、
名水「櫻の井」跡があります。 また、大老・井伊直弼は赤門を出発し外桜田門付近で襲撃されましたが、 そのルートを辿りながら外桜田門を訪れました。
外桜田門にある渡櫓門の美しい石垣と刻印、 青海波(せいがいは)、 几号(きごう)水準点(すいじゅんてん)、 高麗門の潜戸(くぐりど)を確認し、
次に世界で最も美しい景観の一つといわれている 皇居正門を訪れ、 二重橋と伏見櫓をバックに集合写真を撮りました。 ここから、楠正成像までの皇居外苑一帯は、かつて大名屋敷が立ち並んでいました。
休憩後、天下普請による江戸城修築、 名古屋城構築、 大阪城再修築の各時期と道三堀の開削 → 日比谷入江の埋立→堀の拡張について学びました。
馬場先門跡の星形刻印の魔除 「五芒(ごぼう)星(せい)」、 和田倉門跡の安芸広島藩浅野家と 薩摩鹿児島藩島津家の複数刻印された石を捜しました。 和田倉門跡にて、 予定時間より早く解散となりました。
「城門や石垣について詳細な説明があり、江戸城のすばらしさを実感しました。」との感想が寄せられました。
緊急事態宣言中ではありましたが、天候に恵まれ、参加者皆様のおかげで無事終了することができました。 資料、説明、コースタイムなどについて全員の参加者から「満足」と評価された見学会でした。
前年度以来のコロナ禍のため、友の会行事が連続して延期・中止となっていますが、
久しぶりに勉強会を開催できました。
本回も、前年度の予定行事が延期され実施されたものです。
参加募集は、友の会会報とホームページに限り、30名以内に制限されました。
日ごろ、博物館友の会の見学会で戦国期の後北条氏の山城や泰平の世の江戸城を訪ねています。
現地見学や資料作成の中で生まれた疑問の解決を求めて、「戦国乱世から天下泰平の世へ」の
歴史プロセスを改めて考える勉強会としました。
話の筋は、まず「はじめに」年表を振り返り、いくつかの特徴点から問題意識を掲げました。
戦国時代は長く続いたが、その最終段階は急速な収束であったこと。
天下統一が成立しても、直ちに平和の世ではなかったこと。
泰平の世が来るまで、さらに人々の努力が必要であったこと。
「戦国乱世とは何か」を考え、「天下統一とは何か」、「天下泰平の世とは何か」と歴史の流れの本質を考えることにしました。
話の後に、数名の方から質問・意見がありました。いずれも今回のテーマに関係するとともに、
さらに広い歴史学習のテーマをえぐるものでした。
「享徳の乱とは何か」「歴史上の土地の共有とはどのような制度なのか、
現今の土地私有制はどのような経過で成立したのか」「城について、また廃城(城割り)について」などです。
勉強会に相応しい、会場からの活発な意見表明でした。
歴史部会の令和2年(2020)度活動をご紹介します。↓
新型コロナウィルスが国内各地で、感染ルート不明のまま広がっており、慎重に検討を重ねた結果、参加者感染の未然防止のため当該企画を中止しました。
過去−現在−未来、この間の道程(みちのり)を埋める時間そのものが「歴史」です。歴史部会企画への積極的参加をお待ちしております。
市川博物館友の会 歴史部会 幹事一同
歴史部会の令和元年 (2019) 度活動をご紹介します。↓
江戸城の威容を今に残す壮麗な城門である田安門・清水門・乾門・北桔橋門・平川門・大手門やその周辺の石垣を巡り、石垣の仕組みや古さと、その刻印の目的などを学びました。
横浜開港160年に因み文明開化の色濃く残る横浜と横浜港の史跡や、県立歴史博物館・横浜みなと博物館・横浜市開港記念会館・横浜開港資料館などの館内見学を通じて横浜と横浜港の歴史を学びました。
江戸時代初期まで旭市近くにあった「椿の海」と呼ばれる大きな湖について、そのネーミングに因む伝説、全面干拓の背景、開墾までの経緯、対立抗争、困難な工事などを学びました。
全国唯一精神科を有した「国府台陸軍病院」にスポットを当て、創設から現在まで134年の歴史と、病院長が死刑を覚悟で残した8,002名分のカルテとその一部の将兵を紹介しました。
天正10年(1582)6月2日「本能寺の変」と同日に開催し、謎に満ちたこの事件の原因を中世という時代の中で考えました。
令和2年NHK大河ドラマに先行した形でしたので、質疑応答が活発に行われました。
過去−現在−未来、この間の道程(みちのり)を埋める時間そのものが「歴史」です。歴史部会企画への積極的参加をお待ちしております。
市川博物館友の会 歴史部会 幹事一同